知っている人が少ない病気だからこそ
「つながり」が大事
幼いころにムコ多糖症Ⅱ型の診断を受けた、伊藤大輔さん。
学生のときもシステムエンジニアとして働いていたときも、一人暮らしをしている今に至るまでずっと、あるがままの自分と向き合ってきました。歩んでこられた道のりと、今、思うこと。伊藤さんに語っていただきました。
紹介した症例は臨床症例の一部を紹介したもので、全ての症例が同様な結果を示すわけではありません。

病名を知っても「ピンとこなかった」
生きましょう――。
「ムコ多糖症の患者さんやご家族に伝えたいことは?」とたずねられたとき、頭に浮かんだ言葉です。私はこれまでにさまざまな症状を経験し、思うようにいかない状況に何度も直面してきました。でも明日はやっ て くるし、人生は続く。「な んで?」、「どうして?」と思い悩む前に、今をどう生きるか、どう楽しむかを考えたほうが、前に進む力になる。そう考えて、ずっと過ごしてきました。
幼いころ、私がまわりの子どもたちとちょっと違うと最初に気づいたのは、母親でした。指が曲がらない、まっすぐに伸びない、いわゆる鷲手だったことに違和感を抱いて病院を受診したところ、くわしい検査をすすめられたそうです。
小児専門の医療機関で検査を受け、ムコ多糖症Ⅱ型の診断を受けました。4、5歳のころですから、診断されたときのことはあまりおぼえていません。
診断後は、経過観察のため半年に1回のペースで通院していました。小学生になってしばらくすると「自分には何か病気があるんだろうな」と、漠然と感じてはいました。それがムコ多糖症Ⅱ型という病気だと理解したのは、11歳ごろのことです。でも当時は、病名を知ってもピンときていませんでした。
身長は低かったけれど、勉強もご飯を食べることも含めて、普段の生活で特に不自由は感じていませんでした。まわりと比べてちょっと違っている、という自覚はありました。でも、それが自分の中では普通でしたから、「そういう病気なんだ」というくらいの感覚です。
人の役に立っているという満足感
高校は、将来のためにも生きる力を早く身につけてほしいという親の意向もあり、専門高校に進学しました。そこで情報技術を学び、卒業後はシステムエンジニアとして鉄道関連会社に就職しました。
会社では、社内の業務用アプリの不具合への対応などに従事しました。パソコンの扱いには慣れていましたし、問い合わせに応えると感謝されることも多く、人の役に立っているという満足感がありました。
仕事にはやりがいがありましたが、病気の症状のために思うように働くことができないジレンマもありました。10歳代後半、仕事を始めたころには耳の聞こえが悪くなり始め、社内でのコミュニケーションに支障があったため、20歳ごろから補聴器をつけるようになりました。
ムコ多糖症Ⅱ型の治療として、酵素補充療法を始めたのは20歳代半ばのことです。親がニュースで酵素補充療法のことを知り、専門の医療機関に問い合わせたのがきっかけでした。親に連れられて受診した医療機関で説明を受け、治療を始めるかどうかの選択を求められたときは、ちょっと戸惑いました。当時は仕事がかなり忙しい状況にあり、週1回通院して点滴を受けるのは大変だと思ったためです。
最終的には、定期的に治療を受けていれば安心感があるし、将来への不安もやわらぐからという親の強いすすめもあって、治療を始めることを決めました。
自分でできることは、自分でしたい
治療は週1回、会社が休みの土曜日に受けていました。休日を治療に費やさなくてはならないのは嫌だったというのが正直な思いですが、それでも治療は継続してきました。
会社では、持病があるからといって残業がないわけではなく、忙しい状況が続きました。心身は疲れ切っていましたが、こうした環境を私自身も望んでいました。過度に配慮されるよりもむしろ、自分でできることは自分でしたい、という気持ちのほうが大きかったのです。
会社は病気とは別の理由から、30歳代前半で辞めることになりました。高校卒業から約15年間の会社勤めでしたが、いい経験になったと思います。
高校時代の先生に伝えたいこと
ムコ多糖症Ⅱ型と診断されてから、私は多くの人と出会い、支えられてきました。両親、学校の先生、職場の同僚と上司、治療を受けている病院の先生、スタッフの方々。特に印象に残っているのは、高校時代のある先生のことです。
診断のきっかけにもなった鷲手は、関節拘縮とも呼ばれる、関節の動きが制限される症状によるものです。その影響は指だけではなく、足にもありました。立ったとき、かかとが地面に着かず、つま先立ちになってしまうのです。
高校2年生のときの修学旅行でスキーを経験できることになっていたのですが、スキー靴の中でかかとが浮いたままでは、重心がぐらついて滑ることが困難です。私は病気だから仕方ないと、スキーをすることは諦めていました。
そんな私のために化学担当の先生が、スキー靴の中でかかと部分のすき間を埋める装具について調べてくれていたのです。こちらからお願いしたわけでもないのに、です。旅行に出発する前、先生は私を装具の製作所に連れて行ってくれました。作った装具をスキー靴に入れるとかかとが固定されて、気持ちよく滑ることができました。諦めていたスキーを、楽しむことができたんです。
あのとき、私は自分のことで精一杯で、先生に感謝の思いを伝えることができませんでした。もしお会いできるとしたら「ありがとうございました」と、きちんとお礼をいいたいですね。工夫すればいろんなことを楽しめると、教えてもらった気がします。
治療前の先生との面談で心が落ち着く
酵素補充療法は今もずっと継続しています。35歳のときに通院先がやや遠方の病院に変わりましたが、電車の乗り換えは1回だけですし、駅から病院までは徒歩数分ほどですので、問題なく通院できています。主治医の先生には毎回、点滴前に面談時間を設けてもらっていて、特別なことを話すわけではありませんが、話を聞いてもらうだけでも安心できます。
ムコ多糖症Ⅱ型の症状としては、30歳ごろから視野狭窄があらわれ始めて、眼鏡をかけるようになりました。その数年後には、気管狭窄の影響で声がかすれるようになってきました。以前からの難聴に声がれも加わり、人とのコミュニケーションにはちょっと苦労していますが、体調は大きく変わっていません。
自分なりに前向きに、生きていく
ムコ多糖症Ⅱ型の患者を診ることは医療関係者にとっても大変なことなんだろうと、いつも感じています。ムコ多糖症Ⅱ型は希少疾患で、知っている人は少ない。だからこそ、いろんな意味での「つながり」が大事なのではないかと思います。
この病気についての知見をもっている医療関係者と、そうでない医療関係者とのつながりがあれば、患者を早い段階で診断し、治療を始めることができるかもしれません。医療関係者と患者のつながりも大事だし、患者同士のつながりも大事です。私はムコ多糖症の患者家族会に参加していますが、カンファレンスや会報を通じて、最新の研究などの情報を得られるのはありがたいです。
今、私は、一人暮らしを10年以上続けています。読書やゲームなどの趣味を楽しみつつ、買い物に家事にと「普通」の生活を送っています。病気の症状は人によって違うし、病気との向き合い方も人それぞれ。これからも自分なりに前向きに、生きていこうと思っています。
監修者のことば
ムコ多糖症Ⅱ型は、ハンター症候群とも呼ばれる遺伝性の希少疾患です。この病気は、細胞内のライソゾームという小器官でムコ多糖を分解する酵素「イズロン酸2-スルファターゼ」が不足していたり、その働きが弱かったりするために、細胞内にムコ多糖がたまってしまいます。その結果、全身の臓器にさまざまな症状があらわれます。
発症頻度は約10万人に1人程度の希少疾患で、わが国では約250名の患者が報告されています。
症状としては、特徴的な顔つき、舌が大きくなる、肝臓・脾臓の腫れ、関節拘縮(関節のこわばり)、低身長などの身体症状に加え、60~70%の患者さんには発達の遅れなどがみられることがあります。
主な治療法は、造血幹細胞移植と酵素補充療法です。近年になり、血液脳関門を通過できるタイプや脳室内に投与するタイプの酵素補充療法も出てきました。いずれも、早期診断・早期治療開始が重要とされています。
今回、本冊子の制作に協力してくださった伊藤さんは、一人暮らしをしながら酵素補充療法を続けておられます。ムコ多糖症Ⅱ型の症状のあらわれ方は患者さんごとにさまざまであり、本冊子をお読みいただいている皆さんが置かれている状況もさまざまだと思われます。伊藤さんの生き方、考え方に触れ、病気との向き合い方と今後について考えるきっかけにしていただきたいと思います。
慶應義塾大学病院 循環器内科 /
予防医療センター 山川 裕之 先生
病気や治療に関してわからないことがある場合は、
必ず主治医にご相談ください。
JCRファーマ株式会社
住友ファーマ株式会社
協力:日本ムコ多糖症患者家族の会



















